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記憶のすり替えを克服する

過去の記憶について、身近な人との食い違いが生ずることがあります。たとえば、私の保育園に通っていたときの記憶。15年前に亡くなった私の父が言っていました。「保育園に送り届けたとき、自転車から落として、頭をうったことがある」と。しかし、私自身、保育園の思い出としては、別の記憶があります。誰か友達から石を投げつけられて、それが私の頭にぶつかったと。そして、父の自転車から落ちた記憶はまったくありません。私を保護してくれるはずの親がそんなことをするはずない。そうであってほしくない。そんな防衛本能から、脳が都合のいい記憶にすり替えてしまった結果なのでしょう。私は、そのような記憶のすり替えを克服することに今、取組みます。この話を、昨日、知人に話してみたところ、「そんなの、誰にでもあるじゃない」
という反応でした。そこにとどまろうとするその知人には、おどろきました。 「記憶のすりかえ」を脳の防衛本能にまかせて
おこなっていたのでは、偉大な成功者にはなれないと考えます。 過去の記憶のすり替えは、 多くの場合、ネガティブな気持ち、感情とむすびついていて、 それを隠蔽するために、すり替えにつながっていると
考えるからです。


  正しい記憶を取り戻す →その時のネガティブな感情を取り返す →そのネガティブな感情をポジティブな思いに転換する この作業をおこなってこそ、
無限の潜在能力を引き出せる。 私は、そのように考えて、記憶のすり替えの克服に取組んでいます。

フラッシュバック

ネガ(ネガティブな思い、ネガティブなエネルギー、ネガティブな感情、具体的には、罪悪感、劣等感、嫉妬、ねたみなど)をポジ(ポジティブな思い、ポジティブなエネルギー、ポジティブな感情、具体的には、向上心、幸福感、愛など)に転換していく作業。日々、こころがけているつもりでした。おとといの日曜日、そして昨日の月曜日、今朝火曜日の朝にかけて、大きなフラッシュバックがありました。これまでに何度かくりかえしあったものと同じものです。自分自身の幼少期から、思春期にかけて受けた心のひっかかり。それを、これまでも昇華させてきたつもりだったけれど、不十分だったようです。今回は、最後の対決として、大きく成功する未来へと飛躍します。結論的に言うと、私自身が親から受けた愛を再認識して、再び感謝する作業です。おととい日曜日のフラッシュバック(母の愛):フェリックス・メンデルスゾーンの曲に1番から3番までの歌詞をつけて教会で歌う讃美歌があります。1番の歌いだしは「いざやともに声打ち上げて」2番の歌いだしは「ははのむねにありしときより」この2番の歌詞がひっかかり、小学校低学年の記憶がよみがえりました。小学校の校長から「まだ、お母さんのおっぱい吸っているんだろう」とからかわれたそのとき、その横には母がいました。母は否定しました。それが悲しかった。私の小さいときの写真を収めたアルバムには、母に抱かれた写真など一枚もない。母は、母乳がでなくて、乳母さんに私は育てられた。小学校の校長とのやり取りが、これまでも何度か、フラッシュバックとしてあったけれど、私のこれまでの光のあて方が不十分でした。実は、母は、写真がとても好きだった。だからこそ、アルバムには、私の小さいころの写真がたくさんあって、その一枚一枚に母のコメントがついていた。その写真に母が写っていないのは、母自身がカメラを構えたからではないか。どうして、今までそのことに気づかなかったのだろう。母が、私にカメラを向けた動機、それは、親の子に対する愛以外にないではないか。山形県に山寺(立石寺)というお寺がある。たしか、800段以上の階段をのぼったところにあるお寺。母は、教師仲間といっしょに旅行に行った際、みんなの写真をとるためにカメラをかまえて一歩ずつ、下がる。「ストップ」という声を仲間の教師がかけたからよかった。母が止まらなければ、がけの下に落ちていたかもしれなかった。母が、子供の成長を記録したこと。感謝しよう。感謝は、愛を受取ること。最近読んだ石田ごうきさんの本に書いていた。私自身、子供に対してそこまでの愛を注いでこられなかった。ほかの形で、自分自身が自身の子に対して愛し、それを表現する必要がありそうだ。昨日、月曜日のフラッシュバック(父の愛):昨日、月曜日の午後、室内のアンモニアの濃度が私の我慢の限度を超える状況に5時間ほど拘束されました。私はたばこ嫌い。間接喫煙を強いられると、頭痛がします。喫煙者の呼気に含まれるアンモニアが私の脳の血管にはいって頭痛を起こすのだと、受動喫煙外来の受診をして説明を受けたことがあります。昨夜から、今朝にかけて、私は、自分自身の人生を5年ごとにさかのぼって、思い出す訓練をし、小学校3年生、4年生のときのことを思い出して、私のタバコ嫌いの発端らしきことに思い至りました。私の父の喫煙です。私の父が喫煙していたということは、ずっと私の記憶からは、除外されてきていました。私が中学生になってからは、私の父は、吸わなくなっていましたから。しかし、私が小学校3年生、4年生のころは、父は吸っていました。ピース缶というものが当時ありました。円筒状のケースに50本がはいったものです。そして、そのころ、徹夜マージャンというものがはやっておりました。毎週のように、週末には、私の家に、父の同僚がやってきて夜通しマージャンをする。そこでたばこをすっていた。この記憶は、私が50年もの間、封印していた記憶です。それが、今朝、起きたときによみがえってきました。この記憶のよみがえり。これをどう私は処理したらよいのか。どうしたら昇華できるのだろうか。けさ、起きてから、職場につくまでの間、悩みました。そして、職場につくころにやっと結論を得たのです。父は、そのとき、徹夜マージャンをやる場所を外ではなくて、自宅に選んだのだ。それは、家族に近い場所にいたかったからではないか。そこに父の愛を感じよう。感謝しよう。この感謝によって、たばこアレルギーまでなおらないかもしれないけれど。幼少期から、思春期に掛けての、トラウマ、かなりおおきなトラウマを乗り越えることができたと思います。今となっては、すでに両親は亡くなっているので、直接このことを伝えられないけれど、この経験を自分自身の子供を育てていくのに、役立てたい。